みたらし団子と罪滅ぼし

罪滅ぼしはいったい誰のため必要になのだろう?

ある朝、通勤のため、いつものように

駅にスクーターで移動した。

駐輪場について、ヘルメットを

スクーターのイスの下にしまおうとしたときのこと。

イスをあけると、なんとそこに、

パックに入ってみたらし団子が3本入っていた。

団子のパックと団子は、

前の日の夜、うえからヘルメットで

押しつぶされペシャンコ。

そういえば、

きのうの夜21時過ぎに帰宅途中、

駅の地下改札を出たところにあった

期間限定の出店の団子やで、

半額になったばかりの団子を買ったことを思い出した。

子供たちの朝食用に、買って帰った。

帰宅しバイクを降りた時、買ったのを忘れ、

そのまま家に入ってしまったのだ。

・・・

いま自分は駅にいる。

もう子どたちに食べさせてやることはできない。

何のために買ったのかと、自分に怒り、

心底ガッカリした。

つぎの瞬間、団子を見ながらこう思った。

「自分で食べようか?」。

でも、悩む。

ここは早朝の駐輪場。

いまここで団子を特に食べたいわけでもない。

でも、わざわざ電車に乗せて、

職場につぶれた団子を持参する理由もない。

そしてなにより、食べたくない団子を食べて

太ることほどつまらないことはない。

実際は5秒程度だろうが、体感的には5分くらい悩んだあと、

「これは罪滅ぼしだ」

と心の中でいい、その場で

団子を全部「食べる」ことにした。

団子のへ供養などあるまい。

「いったい何(誰)に対しての罪滅ぼしなのだろうか?」

「なぜ団子を食べることが罪滅ぼしになるのか?」

意味不明な理由で団子を食べようとしている自分に

一瞬、別の自分がストップをかけた。

でも、

「これは自分への罪滅ぼしなのだ」

と、その部分だけなっとくさせて

その場で3本とも食べた。

きのうの夜、バイクから団子を出し忘れた

馬鹿な自分忘れるためには、

意味のない別の馬鹿なことをして

帳消しにする必要が私にはあった。

目には目を。

馬鹿には馬鹿を。

プラス馬鹿、マイナス馬鹿で相殺。

そんな屁理屈をこねながら、

自分を納得させようとしていた。

・・・

馬鹿を馬鹿で帳消しにできるなんて、

そんな理屈あるはずもない。

その思考そのものが馬鹿なのだけれど、

思ってしまったのだから仕方ない。

いかがでしょうか?

あなたは、何かしでかしてしまったあとに

帳消しにするための馬鹿な行動を

とった経験がありますか???

たとえば、

・食べ過ぎだあと、ダイエットグッズを注文する

・油ギトギトラーメンを食べたあと、黒烏龍茶を飲む

・子供に怒ったあと、今後は優しい言葉をかける

・普段自分は道を譲りもしないくせに、車で右折しようとした時、対向車から道を譲っら、その直後だけ親切な人に変身して同じように他人に道を譲ってみる

・衝動買いで買ってはいけないものを買ってしまった日の夕ご飯だけ、いつもより安めの惣菜を手にとり、夕ご飯にする

・いつもより残業が伸びてしまった帰り、コンビニでいつもは買わないデザートを買って食べる

何の根拠もない馬鹿な行動。

この手の取り消そうとする行動は、きっと

「自分から許されたい」

ための行動なのだろう。

(ちなみに、上の例はすべて、私自信が過去に経験したことです)

自分を許すためなら、手段はバカでなんでもいい。

いや、理にかなったまじめな行動より、

むしろ、馬鹿な行動のほうがちょうどいい。

馬鹿をして、笑い飛ばしたほうが気が楽だから。

そして人は、中身は何でもいいから、

打ち消すための行動さえ一つでもとれれば、

それだけでもう、半分は自分を許せてしまう。

そんな不思議な生き物。

・・・

団子を3本食べる行為そのものは意味はない。

でも自分を許すためには馬鹿な行動必要だった。

自分の心を満たすため(回復?)に、

意味のない団子を3本食べる「必要」があった。

そして、実際、

意味のない団子を3本食べたことで、

私が勝手に決めた罪滅ぼしのルールは完了し、

今この時点で、しくじった自分への罪悪感は

「だって罪滅ぼししたもん」

と、いうことで、

完全になかったことになっている。

つまり、

罪滅ぼしとは、相手のためにするのではなく、

いつも自分のためだけにしているだけなのだと確認した。

・・・

他人の言動を見聞きしていると、

意味が理解できないことに思えることがある。

それは、意味で理解しようとするから

理解できないのだ。

意味で理解するのではなく、

その人にとって

「必要があったのだ」

とだけ、理解すればいい。

いや他人を理解するためには、

「意味は分からないけれど、この人にとってはそうする必要があったのだ」

と理解する「しかない」。

他者理解とは、相手の思考と自分の思考を

近づけたり同じになろうとすることではない。

むしろ逆。

「相手の思考と自分の思考は違うのだ」

と、違いを認めること。

それができれば、さきほどの、

「相手にとっての必要」も認めることができる。

どれだけ違うかをより深く知ること。

それが他者理解。

【この言葉を自分に言ってみよう!】

「他者を理解するためには、意味よりもその人にとっての必要性で理解する」

そうしなければ、

早朝の駐輪場で、44歳の男が

つぶれたみたらし団子を3本も食べた、

その事実を理解することは一生できない。

・・・

「それを必要としている存在なんだ」

と理解することを「共感」と呼ぶ。

そして、

傾聴の祖C.ロジャーズは、

共感=客観性と呼んだ。

客観的に、でも深く相手を理解しよう。

・・・

3本の団子を食べ終えたときこう思った。

「次回また団子やを見つけたときは、また買って子ども達に食べさせてやろう」

そうリベンジを誓ったのでした。

馬鹿な行動もちゃんと次につながる反省になるようです。

<お知らせ>

客観的に、でも深く相手を理解する

本当の他者理解に興味がある方は、

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